俺のガンダムよもやま話


ガンダムの面白さって何?(ストーリー編)
 面と向かって聞かれると、それを答えるのは難しい。色々と考えつくが、はっきりこうだと言える要素が多いゆえに絞りきれないというところだろうか。
 俺にとって機動戦士ガンダム、所謂ファースト・ガンダムはガンダムシリーズの中でも別格だ。文字通り俺が触れた最初のガンダムであり、もっとも好きな作品である。ガンダム誕生から25年、下に書いたようにガンダムは最初に接した作品によって、好きになるものが全然違う。これは、作品毎に特徴があり、作品毎の面白さがハッキリしていると言える。俺にとっては、単にゴチャゴチャしているだけの印象しかないZ、ふざけ過ぎているZZ、キャラ人気先行でストーリーが迷走したW、こういった作品がガンダムシリーズの中で一番! という人間がそれなりに多いのも案外頷けたりする。対象を低年齢、女性向けにして媚びた感じが鼻につくSEEDも、いずれ数年すれば、SEEDからガンダムに入った者が成熟(ここでいう成熟とは、SEEDを単なるアニメの一作品として終わらせず、それを通過点として他のガンダム作品と比べ出したり、自身でMSやキャラの情報を収集し出したりして、SEEDを媒介にしたガンダムの知識を増やしていくということ)し、SEED最高!という者も出てくるだろう。
 それ自体は別に問題ではない。ガンダムは新作品が放映される度に賛否の意見が飛び交うので、SEEDにしても終了した後で再評価する向きが多く出ても不思議ではない。
 じゃあ、元に戻って俺が他の作品よりもファーストが好きな理由というのを考えてみると、まずは懐の深いストーリーが挙げられる。母子とジオン兵の交流を描いた“戦場は荒野”、カイとミハルのエピソード、チビッ子三人組みが主役となる“小さな防衛線”、アムロを中心とした本編とは関係の無いところで進む、そして最後まで完全な別エピソードとして挿入されるこれらのエピソードは、作品全体に奥行きと余裕を持たせている。このようなストーリー作りは他のガンダム作品ではあまり見られない。Wでは5人が主人公扱いなのでそれぞれ独自のエピソードは入るものの、それは結局本編の延長でしかない。
 こういったエピソードの挿入は、ややもすると本編の進行を停滞させ、散漫にさせてしまう可能性がある。その冒険を犯してそれが成功したことに、ガンダムのガンダムたる所以がある。
 今のSEEDを始め、他のガンダム作品が妙に余裕の無いストーリー進行をしている(特にZはそれが顕著である。話と話の間の背景設定をいきなりナレーションで済ませてしまうあたりが切羽詰まった息苦しい印象を与える。本来、ストーリーの持つ緊張感と、作品そのものの余裕とは全く別物なのだ)のは、広がりすぎた世界観故の苦しみのような気もするが、今の様にMS人気、キャラ人気が大部分を占めるガンダムでは、いくらストーリーに文句を言われようとも、おいそれと遊びをいれることが出来ない足かせを持っているのだ。

ガンダムとの出会い
 機動戦士ガンダム(俗に言うファースト・ガンダム)が初めて放映されたのは、昭和54(1979)年4月7日。俺が小学校低学年の頃だった。俺はリアルタイムで放映されていたガンダムの映像を微かに覚えているが、当時はそれほどのめり込んではいなかった。というより、俺の周囲では誰もガンダムなど気にも止めなかった。
 周知のこととは思うが、ガンダムはテレビ放映当時は全く人気が無く、視聴率も極端に低い時もあり、失敗作という見方もあった。これは全国的な傾向で、俺の友人も“ガンダム? 何それ?”とか“ああ、あの面白くないやつ”というのが一般的な印象だった。だから本来4クールの話が打ち切りに合わせて43話に短縮されたのである。俺も間もなくガンダムのことは記憶から失った。
 富野善幸(現・由悠季)監督の、ザンボット3に始まり、ダイターン3、ガンダムと続く、いわゆる“リアルロボット3部作”はどれもそれほどの人気が得られず、後の作品は監督も変わり、トライダーG7やダイオージャなど、あからさまな路線変更が行われている(この作品群が後の勇者シリーズに続くという見方も出来る)。
 その後、友人からガンダムの話をちらほら聞き始めたのは映画版が公開されてから。それも第1作ではなく、第2作目、哀・戦士が公開され爆発的ヒットとなってからだ。主題歌である哀・戦士、めぐりあい宇宙が歌番組を賑わした。当時、アニメの主題歌はアニメだけのもので、歌番組にそれが登場するのは異例のことだった。今のように大物歌手とのタイアップ曲など(無い事も無かったが)考えられなかった。それにしても、あんなに低調だった視聴率のわりに、よく映画化なんて出来たものだ。しかも3部作で。バルディオスの例(視聴率は数パーセントという時があった)もあるが、今の視聴率(人気)が全てという時代じゃ無かったということか。
 その頃には俺もガンダムのことはすっかり忘れていて、友人から“ジオングが、ゲルググが”という話を聞いても何の事か判らなかった。
 ガンダム人気が席巻してゆく中、もう一度TV版を見たいと思うようになった。当時のTVは放映されるアニメ本数も少なく、今のようなバラエティ等存在しなかったので、再放送が多くあった。ガンダムも何度も再放送され、その度に俺の(俺達の)記憶に刷り込まれることとなった。今のように再放送そのものが特別扱いになるような時代ではなく、そういった意味では非常に恵まれていたといえる。
 友人達と“ガンダムごっこ”をしたのは小学校も高学年になってから。ファミコンすら存在しない当時は、ランドセルの脇に30センチ物差しを差して“ビームサーベル”とか、ズボンのベルトを抜いて“ヒートロッド”とかやって遊んでいた。懐かしい限りだ。今のようにガンダムゲームが充実して、当たり前のように既存のもので遊べる状況は、俺にはいいことかどうかよく判らない。
 Zガンダムが始まったのは、俺が中学になってから。エルガイム後半の悪さをそのまま引き継いだ内容で、部活が忙しくなってきた俺は、VTRに取ることもなく、そのまま見るのを止めてしまった。
 1話見逃すとまるで判らなくなる展開、極端に少ない作画でコマ送りのように見える演出。そのくせ、一瞬だが、妙に細かい描き込みがあり、全体的なバランスを欠いていた。今見るとやりたいことはよく判るが、やはり凡作という印象が拭えない。Zですらそうなのだから、その次のZZも何話か見ただけですっぱり切ってしまった。
 ガンダムは、初めて見た作品によって、印象や好きになるものが全然違う。Zが好きという人間にはちょっと首を傾げたくなるのは、ファーストの熱気を肌で感じたことのある、俺のような世代が感じるギャップからだ。
 しかし、ガンダムというキーワードで2倍、3倍も年の離れた者同士が、同じ会話で盛り上がれるというのもガンダム特有のもの。今のSEEDに対しても今色々な意見が出されているが、もちろんそれが“ガンダムという名のついた作品だから”というところが大きい。決して不毛にならず、前向きな議論を、と願っている。


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