脚本 大野木 寛、両澤千晶、演出 西澤 晋、絵コンテ 谷田部勝義
ストーリー
アスランやシン達の活躍によってユニウス・セブンは大きな破片へと砕かれた。しかし、ミネルバへの着艦の機会を失った二人は重力に引かれて落下してしまう。
大気圏に突入し、ギリギリまで破砕を行うミネルバは、ユニウス・セブンを破砕することには成功したものの、その破片は地球全土に降り注ぎ甚大な被害をもたらしてしまう。
無事シンとアスランを回収したミネルバは太平洋に着水する。
デュランダルを主とするプラントからの援助が差し伸べられてる地球では、ブルーコスモスの盟主ロード・ジブリールが怪しい動きを見せる。
太平洋上のミネルバはオーブに向かうことを決定する。
そのミネルバの上でアスランとシン、カガリ、そしてルナマリア達のそれぞれの想いが交錯する。
ジンによってもたらされたユニウス・セブンの地球落下、そしてジンのパイロットによって語られた言葉はアスランを苦悩させる。そして新たな混乱を予見するキラとラクス。
そこには新たな荒らしが胎動し始めていた。
アバンタイトル
第6話のハイライトより。割れながら落ちていくユニウス・セブン。その上ではアスラン、シンとジン部隊との戦闘が続く。パトリック・ザラの理想こそが正しいというサトーに動揺し、損傷を受けるアスランのザクウォーリア。ジン部隊を撃退するものの、アスランとシンは重力に引かれて地球へと落ちていく。
Aパート
大気圏突入時の摩擦に焼かれるユニウス・セブン。それを追うミネルバ。タリアはシン達を巻き込む可能性があることも省みず、タンホイザーを起動させる。ここでのタリアの措置は全く正しい。わざわざ説明する必要はない。このカット、ややタリアを責めているような雰囲気もあるが、任務の優先順位を考えればシンやアスランの命を犠牲にしてでもユニウス・セブン破壊は行わなければならない使命だ。このカットはあくまで視聴者サイドに状況を訴えかける為のものであるが、「だから軍隊は不条理だ!」というキャラ重視の視聴者にとってはタリアは嫌われてしまっただろう。
ミネルバはそのままユニウス・セブンを攻撃する。でもこの砲撃、タンホイザーが素粒子ビームなら大気のバリアや熱等が邪魔して真っ直ぐには撃てないぞ。
シンのインパルスは大気圏突入の為のプログラムを走らせている。ここで進入角度の調整をしているのは、大気圏はそのまま地球のバリアとなっている為、進入角度が浅過ぎるとそれに跳ね返されて飛ばされてしまうからだ。
シンはアスランを探す。そのアスランも大気圏突入の為、シールドを前面に出している。因みに胴体全体に揚力を発生させる構造をリフティング・ボディという。スペース・シャトルがその集大成と言えるものだ。これは大気圏突入する際にもっとも理想的な形として採用されている。ガンダムシリーズで言えば、ガンダムMk−Uのフライング・アーマーやZガンダムのウェーブライダーがこの形である。もっともZガンダムの変形は元々“大気圏突入の為のもの”で、当時話題になっていたスペース・シャトルに変形するという意味だった。しかし、カトキハジメのリデザインによって何故かウェーブライダーは“航空機”としての機能が付加、特化されて今の形になっている。俺としてはZガンダムのウェーブライダーは、スペースシャトルであって、決して航空機ではない。だから航空機的デザインが強くなることは俺にとっては本末転倒なことなのだ。しかし、現状ではZガンダムは航空機としての意味合いのほうが強い。この解釈の変化は時代の流れというべきか。
ミネルバ、本当にユニウス・セブンを破砕する。タンホイザー、凄い威力だ。そのユニウス・セブンは細かな破片となって地球全土に降り注ぐ。幾つかの破片は途中で砕け散っている。その中を降下するミネルバ。
リアルタイムで伝えるニュース。市民達の避難の様子が伝えられている。大規模な都市の映像があるが、前作のザフト地球進攻からは2年。前作ではかなりの戦闘が行われていたような映像があるが、たった2年で復興するのは規模が大き過ぎる。恐らく前作でのザフトの攻略目標は軍事設備のみに限定された局地戦だったのだろう。
マルキオ導師の元にいたラクス、キラもシェルターに避難している。不安がる子供達の為にラクスが歌い始める。その歌に重なり、地球全土に破片が降り注ぐ様子が映される。この時の落下地点が結構有名どころが多いのが笑える。狙って落ちているようだ。まあ、それだけ破片が多かったということなのだろうが。
ガーティ・ルーでその様子を見つめるガンダムパイロット3人。特にステラは恐怖に打ち震えている。死に対して異様な恐怖心を持つというのは、パイロットとしてはどうかと思うのだが。前はブロック・ワードというもので恐怖心を浮き出させていたようだったが、こういう情景を見て死というものを想像出来るのなら、それは戦闘中でも起きるというわけで、戦いの最中に恐怖でフリーズしてしまう可能性だってある。ここのステラは演出としてやりたいのは判るが、ステラの設定からすればやってはならない反応だったかも知れない。
ところでこの隕石落下の映像、色々な映画のパロディのように見えるが穿ち過ぎか?
沢山のモニターに囲まれ、黒猫を撫でながら過ごすロード・ジブリール。そしてレポーターから取材を受ける地球側の政治家(?)の映像を観ているデュランダル。
空力制御が回復したミネルバ。翼を広げているのは揚力を得るためだ。もっともミネルバの翼がどれだけ揚力を発生させられるかは判らない。
電波状態が悪い中、インパルスとザクウォーリアの捜索を命じるタリア。ここでもタリアの措置は全く正しい。しかしここでわざわざタリアにあのような釈明をさせる必要は全く無かった。ここでこのセリフを言っておかなければタリアがかなり冷酷に見えたことだろうが、実際にはタリアは当然のことをやっているだけで、わざわざ部下に命令の説明をしなければならないような蛇足は必要ない。これはもちろん、視聴者に対する説明の意味合いが強い。正直要らないと思ったが、今の「優しいのが当然」と考えている視聴者には必要なのだろう。これについてはアニメ等で描かれる「組織」というのも含めて、本サイトの「一日一言11/30」で少し解説したいと思っている。
アスランのザクウォーリア。ボロボロになりながらもちゃんと大気圏突入を果たしている。このシーン、演出としてアスランを大気圏突入せざるを得なくしてしまった為、御都合主義的に生き残らせたというような無理矢理な感じはしない。つまり、ザクウォーリアには大気圏突入が可能だった、ということである。インパルスはVPS装甲もあるし、前作でフリーダムが大気圏に突入していることからも後発であるインパルスが出来ないはずはない。しかし同じ後発でありながら通常装甲(これも何を意味しているのか判らないが)のザクウォーリアに大気圏突入が可能なのか? 科学的にどうこう言って否定するのは簡単だが、そんなお子さまなことは止めて、実際に突入して生き残ったんだからその解釈をしてみる。それがSF考証というものだ。
と言っても、これは構造上とか機能的に、という説明しか詳しいことは出来ない。ザクウォーリアのスペックも判らないし。ならば何故、大気圏突入能力がザクウォーリアにあったのか。
答えがあるとすれば一つ。ザクウォーリアは元々大気圏突入も視野に入れて作られたということだ。
説明になってない? ならこう言えばどうだろう。ザクウォーリアは単機でも大気圏突入する必要があった。何故か。ザクウォーリアの究極の目的は、地球進攻の為の機体だったからだ。前作の冒頭でジンが突入ポッドで大気圏突入していたが、地球連合軍のMS開発が成功した御陰で、一方的に宇宙から攻めることが出来なくなった。ザフトのセカンドステージMSはその為、単機で戦闘を行いながら大気圏突入をも可能にするMSが必要になったのである。これならザクウォーリアの機能的にどうこうはともかく、少なくとも大気圏突入能力を持っている説明にはなるだろう。地球進攻を為というところで引っかかるかも知れないが、ザクウォーリアが大気圏突入に成功した時点で、デュランダルの野望、つまり俺の唱えるデュランダル・ラスボス説にかなりの説得力がついたと思えるのだがどうだろうか。更にこの後、デュランダルの気になるシーンが。
落下していくアスランをシンのインパルスが捕まえる。ここで交わされる会話は少々マヌケで二人の関係の変化が伺える。特にシンのアスランに対する感情は明確に変わってきているのが判る。前話での「あんな人がオーブに」から信頼出来る相手となる過程といったところだろうか。
シン達の姿を見つけるミネルバ。そのミネルバからの信号弾を見つけ、無事着艦を果たすシンとアスラン。
降りてきたアスランに駆け寄るカガリ。後ろで見ているルナマリアの顔が面白い。もうアスランをアスランと呼ぶことに誰も気にしてないような感じだ。
ミネルバに衝撃が。レイが「地球を一周してきた最初の衝撃波」と言うが、そんな筈はないだろう。どんな衝撃波だよ。
それを起点にユニウス・セブン上での戦いを回想するアスラン。
その頃、プラント(恐らくL5)ではデュランダルが謎の女性と話をしている。
「これからが大変だ」というデュランダルの顔に笑みが浮かんでいるが、その内容は行く通りにも取れる。ここでのデュランダルの真意は何だろうか。少なくとも地球の惨状の心を痛め、復興に危惧を抱いているような感じではない。何を考えているか、“何処まで考えているか”、予想してみるのも面白い。
※ここの女性はどうみてもラクスである。そう言えば第1話のエンディングをみた時、何故かラクスが二人登場して不思議に思ったことがある。それ以降は余り気にも止めていなかったが、もしかすると・・・? 考えてみれば、キラと一緒にいるラクスは胸が・・・。
Bパート
太平洋上に着水するミネルバ。派手なシーンである。
甲板上(余談だが甲板は“かんぱん”と呼ぶのが一般的だが、造船用語ではそのまま“こうはん”と呼ぶのが正しい)で海を眺めるミネルバのクルー達。シンは一人扉にもたれている。
アスランの心配をするカガリ。ここでカガリが心配していることが何かちょっと判りにくい。セリフを聞く限り、アスランの体を心配しているのではなく、MSに乗ることについての心配であるように聞こえる。
カガリのセリフに反発するシン。ここのカガリのセリフはオーブ執政官としての対外的な発言、つまり、マスコミに対してミネルバの功績を認める為の発言のように感じられる。シンが反発するのも当然だが、元々会話の意味が全然別次元に有る為、妙な違和感がある。もっとも直ぐにあるカガリが驚くカットによって、やっぱりカガリの失言だったか、と判るのだが。
シンの発言も真意が判りにくい。同じコーディネーターがナチュラルを滅ぼす為に落とした、ということに対しての怒りだが、そこに差し込まれるカットを見ると、シンの苛立ちは単純にカガリの能天気な発言に対して怒っているだけのようにも思える。実際のところは後に出てくるが、ユニウス・セブン落下が先の戦闘でパトリック・ザラを信奉する者達の行為によるものだと判り、その息子であるアスランの心の内を察したシンが、それを全く理解していないカガリに対して怒りを露にしたものだ。
となると、差し込まれる家族を失ったカットやジンを破壊するカットは全く意味を成さなくなるが。
この辺りのシーンは、深い意味があるようで実際にはなんら意味を伴っていない。敢えて言うなら、アスラン達が行った行為は決して満足の行くものではなかったということを自覚させる為のシーンだろうか。
だが、実際にはこういうシーンはよく入れてしまうものだ。キャラの感情を描こうとする時、上手い方法が見つけられないとこんな中途半端なシーンになってしまうことはよくあることである。もちろん個人的な反省も含めて見ているところだ。
マルキオ導師の家も倒壊している。悲しい表情で眺めるラクスやキラ達。
先に書いたようにここでの会話によってシンの怒りの真意が判るが、シンのアスランに対する気持ちが、どちらかと言えば同情よりも尊敬に準ずるものであることが判る。今までの長い会話はここまでの前振りだったわけだが、やはり掴みにくいシーンが流れ過ぎた。
ところでここのカガリ、妙に女らしいプロポーションをしているように見えるがどうだろうか。
破壊された都市、そこにデュランダルの会見が重なる。そしてロゴスの声。このロゴス達、前話でもそうだったが文字通り、言葉遊びに終始しているような感じがある。どれほどの影響力があるのかは判らないが、感じからするともう既にロード・ジブリールに完全に掌握されてしまっているという感じだ。
プラントから援助物資が送られ、復興に手が差し伸べられる。その行為に不信感を露にするロゴス。
実際、デュランダルの動きは早過ぎるくらいだ。恐らく物資のほとんどはプラントでの緊急の為の物資を放出しているものと思われる(日本でも緊急時に備え、米やインタント食品等の備蓄があるのを知っているだろうか)。プラントは幾ら普段は安定しているとは言っても災害時には甚大な被害が及ぶ可能性がある。緊急の時の備えはかなりあることだろう。
もっともSEEDでは時間経過の描かれ方がメチャクチャで、片一方でプラントに帰還し大量に援助物資を送るデュランダルが描かれているかと思えば、ミネルバはまだ海の上に浮かんだままだ。まるで互いの時間の経過の仕方がまるで違うように思われる。
これは前作でも顕著だった。特に無茶苦茶だったのは、イージス自爆の後、必死でキラを捜索している一方でキラ自身は何時の間にかプラントに運ばれ看病されていたところだ。広義の設定ミス、と簡単には片付けられない。まあ、だからこそプログラムを手にした次の瞬間にはNジャマーキャンセラーを積んだ核ミサイルを山のように作れるのだが。制作者の都合がいいように時間を動かしている、といった感じである。
ファントム・ペインからの報告をロゴス達に見せるジブリール。ファントム・ペインとはネオ達のことだろうと思うが、違うかも知れない。前話では少し違う感じがしたが、あの状況で他に潜入させることは不可能だろう。
そこに映し出されたのは、ジン部隊とフレア・モーター。しかしこのフレア・モーターの接写がネオ達に可能かどうかは疑問。やはりネオ達とは別の潜入者がいたのだろうか。ところでここのシーン、遠近感がメチャクチャでフレア・モーターが異様にデカく見える。
ジブリールはジン部隊がユニウス・セブンを落としたことで、それをコーディネーター全体の仕業ということに仕立てる算段である。戦う為の大義名分は出来たわけだ。
海に浮かぶミネルバ。曇天で波も荒い。自室のアスラン。先の戦闘を思い返している。この回、バンクが繰り返されているが、余り過剰な感じはしない。前作の2クール目から3クール目のバンクは酷かったが、恐らく苦情は殺到しているはずだから、同じ轍は踏まないはずだ。製作スケジュールが乱れて来ない内は、だが。
どうやら雨が降っていたようだ。判りにくい。それも直ぐに上がる。
オーブに向かうことを告げるタリア。ここでカガリは去る時に“礼”をするが、やはりオーブは日本をイメージして設定しているのだろう。前作で散々言われたことだが、実際、オーブをよく描き過ぎた感があるのは日本にかくあってほしいというスタッフの願いのように感じられる。
射撃訓練をするレイ、ルナマリア、メイリン。実際にメイリンは撃ってはいないものの、やはりブリッジ要員といえども訓練は必要なのだろう。
ここで使っている拳銃はどうやら実弾、それも排莢の音がしていることから、現代の銃の延長にあるもののようだ。実際、マガジンを取り替えている。しかし、宇宙でこういう銃は使えるのだろうか。銃は撃鉄を上げて薬莢を打ちつけ、火薬を爆発させて弾丸を飛ばす。宇宙空間では当然爆発は起きず、つまり撃てないはずだ。まるで宇宙空間で使うことは想定されていないか、別の完全密閉された機構でもあるのだろう。
ルナマリア、ターゲットからかなり外している。それに引き換えレイの命中率は高い。しかし、このターゲット、実弾を撃っているはずだが(実際に発射音と排莢音がしている)命中部分が赤く光る等、不思議な感じである。メイリンは何故か撃とうとはしていない。配置部署が違うだけに躊躇しているのか。
後ろで見ているアスラン。外でやるのが気持ちいい、というルナマリアだが、射撃訓練をする設備がこんなところにあるのはどうしたものか。運んできたのか?
アスランのことをよく知っているというルナマリア。その経歴を説明する。ルナマリア達にとってアスランは英雄だというが、そのルナマリアの思い入れが後にアスランとの関係を微妙にするのは直ぐに判ることだ。ここでは微妙な伏線の張り方をしていて面白い。
ルナマリアに促され、射撃の腕前を披露するアスラン。でも、前作ではそんなに上手い感じはしなかったんだが。そういう設定があると聞いたこともないし。場の流れから言えば、アスランの凄さを見せつけルナマリア達の気を引かせる為にでっち上げられた感がする。
シンも加わり、アスランの射撃を見る。その腕前に驚くルナマリア達。上ではカガリが不安そうに眺めている。でも、ちゃんとガラスもあるし、声が聞こえるとは思えないんだが。
ルナマリアの発言に「敵って誰だよ?」と聞き返すアスラン。前作で親友だったキラと戦ったことや、ヤキン・ドゥーエ戦で父親を裏切ったことがアスランの精神的な傷なのだろうか。
オーブに向かうことをシンから聞かされるアスラン。オーブで何をしているのか、とシンはアスランに問いかける。それに重なるように荒れ始めた海を見つめるキラとラクスの姿が。「荒らしが来る」というラクスに「判っている」と答えるキラのこの会話には、これから始まるであろう、ジブリールが手を引く戦いの予見か、それに否応なく巻き込まれていくシンやアスラン、そして自分も傍観者ではいられないだろうキラ自身のことか。
予告
オーブに辿り着いたミネルバ。そこではカガリが他の重鎮達と話をしているが何やらこじれている模様だ。
ミネルバの措置についてか、それともジブリールが本格的に動き出したのか。
アスランはキラと再会しているが、この二人は常に会うことが出来るほど近くにいるのかどうかも気になるところだ。
次回「PHASE-08 ジャンクション」
総評
過去の戦いに於いて心に傷を負い、名前を変えて生きる男。その男に憧れと焦燥感をない交ぜにしながらも共に戦う主人公。そしてかつてその男と戦い、今は隠遁の生活を送るかつての主人公。
こういうと紛れもなくZガンダムであるが、もちろんそうではなく、ガンダムSEED DESTINYのことである。
間違いなくこれは意図したZガンダムに対するオマージュだ。それがZガンダム映画公開に合わせたものなのか単なる偶然なのかは判らないが、(21世紀のファーストガンダムとしての)SEEDに対する続編としてスタッフ達が用意したパラダイムは実にタイムリーに働いている。
ということは、シンが余り描かれないのは、やはりZガンダムで主人公のカミーユよりもクワトロが先にクレジットされるなど、明らかに主役としてアスランをメインにした、Zガンダム主人公シャア(Zガンダムは企画当初のサブタイトルが“逆襲のシャア”であった)という図式だからだ。
ここまで来て判るのはシンは主人公という名目上の役割を与えられてはいるが、スタッフ達が描こうとしているのはクワトロ=アスランということである。
過去の戦いにこだわり表面上は戦いを避けているアスランは、それでも戦いの中に身を置くことが一番自分の能力を発揮出来る(自分の居場所がある)という矛盾の中で苦しむ。それはララァの亡霊にしばられ、アムロとの確執に悩み、自ら舞台に立たなければならない立場であるにも関わらず、それに臆してしまって現実逃避的に目の前の戦いのみに没するシャア=クワトロの姿そのものだ。
シン=カミーユよりも余程キャラクターとしての造型は深く、それ故、スタッフ達が端的にストーリーを描いていく為には好都合な人物だろう。
ここしばらくはアスランをメインにした前作のしがらみからの脱却をメインにした物語が展開されると思われる。
Zガンダムでは結局シャアは自分に勝つことが出来ず、ただ苦悩の中に消えて行った。彼が再び自分を取り戻す為にはそれから遥かに先の映画『逆襲のシャア』まで待たなければならなかった。
今度のアスランはどうだろうか。
富野監督は常にスポンサーサイドとの確執に悩み、それがそのままZ、ZZとなっていることは明白だ。主人公達のセリフはちょっと考えれば、富野監督のスポンサーに対して自由にさせてもらえないもどかしさがそのまま言葉となっているのが判る。
DESTINYは確かにバンダイサイドからの圧力は存在するものの、高い人気を誇りスポンサーの要求さえ満たせれば比較的自由な作りが出来ると思われる。
またアスラン=クワトロでもやはりそのままというわけではない。ララァに当たる人物は見当たらないが、アムロ=キラとの関係はZほど複雑ではなく、またZガンダムのような孤立感、孤高感はアスランからは感じられない。それは単純にアスランが勝手に悩んでいるだけという感じも受けるが、それでもアスランが臥龍が雲を呼ぶ日は来るに違いない(画竜点睛を失く、とはならないで欲しいが)。
こうしてみると奇妙なほどファースト、Zとの人物の相関図に類似点が見えて来るが、そうすると“キャラによる恋愛ゴッコ”は描き方の問題だけのようだ。それはシェイクスピア作劇のような突き放した演出の富野監督と、アニメの中で恋愛ドラマを描いて来た(同人誌上がりの腐女子)両澤千晶の違いということになるのだろうか。
今回のストーリーは主に状況説明に終始していて、MSファン向けよりはキャラファン向けの話となっている。新たなストーリーを展開させる為の伏線が幾つか示されているが、俺にとってはやはりデュランダル・ラスボス説を強くさせる回でもあった。
カガリが子供っぽさは低年齢層視聴者と同じ目線のキャラクター(或いはそういう視聴者でも違和感を覚えるほど子供っぽいキャラ)がいることで、結構複雑なキャラの心情やセリフのやり取り、状況の説明を容易にする為の措置なのかも知れない。
もっともそれが視聴者を苛立たせているのも事実だ。このカガリの不遇な扱いが今後どのようになるかが、ストーリーのキモのひとつであると思う。
ただ、間違いないのは、カガリに与えられた役割というのは、SEEDシリーズを通しての視聴者サイドから見た語り部である。カガリの存在意義が崩れてしまう時はSEEDのパラダイムが崩壊する時であるが、カガリに注意して観ていけば、どの程度DESTINYが成功しているかが判るはずだ。
もっとも現状のカガリの言動は、ただ辛いだけなのであるが。
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