日々雑感 2



1300万人に無価値と呼ばれた男、そして1300万人に喧嘩を売った男
 もちろん、俺のことだ。
 この前、某キリスト教関係の宗教屋が俺のところにやって来た。取り敢えず話をして、へいへいと頷いて、何か本をくれたので貰っておいた(こういうのは資料として集めている)。俺は一時期、小説のネタ集めに新約聖書について勉強したことがあり、少々の知識はある。それに宗教活動についても俺は寛大だ。もちろん、俺にくだらない時間を割かすな、という前提があるが。
 話した感じでは、俺に話す時間を与えず、一方的にまくし立てていた感じだった。それも聖書を取り出して、線引きされた内容を棒読み、何度か質問してみたが、本人の言は全く無かった。だいたい邪悪を滅ぼしてくださる、というなら、真っ先に滅ぼされるのは間違いなく俺だ。
 何しろ俺は、別の某日本最大の宗教団体からお墨付きで、生きている価値がない、悪しき存在だと太鼓判を押されたからだ。勿論、某宗教団体の総意としてそう言われたのである。ナハハハハ、いや、楽しい。俺は喜んでこいつらに喧嘩を売った。いや、買った、というべきなんだろうな。
 これは非常に重要な問題であり、俺の宗教観の根幹を成す問題だから、いつか大きくページを取って語ろうと思っていた。その時のために実名を公表する確約を取ってある。ひょっとするとこれによって俺は危険な立場に追い詰められる可能性もあるが、結構、楽しい。奴らは全世界で公称1300万人。実に日本人の10パーセントに当たる人間が、全て俺の敵だ。全く、これだから人間やってて楽しいんだよな。もっともこれは昨日今日に始まったことではなく、ここまで来るのにそれこそ俺が生まれた瞬間から問題が降り積もっていった結果である。
 とうとうこの話題を語る時が来たか、と思うが、まあ、選挙前後にはまた奴らと接触があると思うので、その時に色々と話を詰めて、改めてページを取ってみたいと考えている。もっとも話し合いによってはもう少し公開は待たなければならないかも知れない。
 某キリスト教関係の奴は言っていた。苦痛、苦しみ、貧困、嫉妬に差別、あらゆる悪を滅ぼし、喜びに満ちた幸福の世界を神が造ってくれる、と。だが、俺は性善説や性悪説を唱えるつもりはないが、奴らが悪と呼ばれるものは人間にとって必要なものだと思っている。それらがないと人間じゃないじゃないか。少なくともそれらが無い人間についての小説を書けと言われれば、そんな退屈な話なんて書けるか!と怒鳴ってやる。


ネーミングについて
 下で名前についてちょっと触れたので、今使っている名前の解説を。
 ハンドル・ネームの“Kai”だが、プロフィールではスコアネームとなっているように、アーケードゲームのネーム・エントリーで使えるように3文字にしてある。読み方はもちろん“カイ”でOK。
 このKaiとの出会いは、ファミコンのディスクシステム、ゼルダの伝説にまで遡る。まあ、単純に言えばゼルダでファイルの登録(名前を入力する)の時に自分の名前を打とうとして、当時はまだコントローラで文字を選択して入力するということに慣れておらず(コントローラに慣れてなかった訳ではない)、一刻も早くゲームをしたかったので、途中ではしょったというのが真相だ。つまり、Kaiというのは偶然出来たのである。同じ“カ”で始まる名前だからいいかと安直に納得して現在に至っている。ということは、もう17年くらい使っているのか?
 当時は、俺のガンダム好きから、カイ・シデンから取ったとか、いや、ドルアーガの塔(イシターの復活)のカイ(あれのスペルは“Ki”だが)からだとか揶揄されたが、本当はこんなものだ。
 メールアドレス(kai_vic_x)にもこのKaiという文字はしっかりと入っている。それに続いてあるvicは、勝利(victory)の頭3文字だ。もちろん、文字通りの意味であり、更に俺の名前でもある。
 俺は自分の名前がずっと嫌いだった。えらく安直な感じがしていたからだ。実際、命名された理由は、俺が生まれた当時、某支持政党が大勝したことによるものだったと聞いた。おいおい、そんなもんで俺の名前を決めちまうなよ。
 だが、最近(というか数年前)から思いなおし、いや、結構いいんじゃないか、とようやく思えるようになった。理由はよく判らないが、大人になった、ということなのかも知れない。
 次のxは未知数という意味だ。運命なんざ、俺の手で切り開いてやる! と半ば開き直った時、この文字は俺の中では結構象徴的なものとなった。
 もうひとつ、vic、xには別の意味もある。vicは囚人とかの意味もある。xは俺が今でも最高だと信じて疑わないパソコン、X680x0シリーズのことで、vic_xは“X680x0に魅せられた(心を奪われた)”という意味も兼ねている。
 別にどれもこれも、というわけではないが、折角だからと、俺はこうやって名前に色々な意味を持たせることをやっている(もちろん、偶然、ということも多々ある)。このサイトの名称は全部小文字なのだが、それにだって意味はある。これの解説は別の機会に。


小犬が生まれた
 今、家で飼っている犬は3頭。どれも拾ってきた、名も無き(種類がよく判らない)犬ばかりだ。もう10年以上一緒にいるのから、最近のは去年、まだ仔犬だったものを蔵元公園で拾ってきたやつもいる。こいつは黒が混ざったチワワだ(TVで持て囃される例のチワワが流行り出したのは、暫く後のことだ)。因みに何故か俺の家の伝統として、最長老には“福太郎(フク)”という名が与えられ、他の犬は親父が、チー、だの、ミーコ、だのと命名している。チワワの名は“マミ”だ。一体どんなネーミング・センスをしていんだと思うが、俺は俺でイヌ!とかチビ!とかクロ!とか言ってるんじゃ、人のことは言えない。俺の感覚から言えば、生き物に名前を付けるのはちょっと躊躇われるのだ。もっとも、PCなんかには名前を付けているので(今使っているPCの名前は“サンドリオン(シンデレラ)”、俺はPCにはお伽話のお姫様の名を付けることにしている)、これはこれで変だと思うが。
 正確には犬を飼っているのは親父で、俺は特に犬に関心があるわけじゃない。失業中には、一番大きな犬とよく一緒に散歩に出掛けていたが、今の仕事に就いてからは犬とじゃれることも無くなった。
 しかし、仕事で犬の成長をゆっくりと観察出来なくなると、今の彼らの現状は全く判らない。一番小さいのを拾ってきた時、小さな段差が登れるようになったのを見て、必死なその愛らしい仕種に、口元が緩んだものだが、知らない間に活発に走り回るようになり、俺の体に抱きついてくるようになると、少し迷惑な複雑な心境だった。
 その仔犬が今では雌犬として成長し、先頃4頭(匹)の仔犬を出産した。まだ眼も開けず、キューキューと鳴いて這い回っては、雌犬にじゃれついている。拾ってきたころは片手に乗るほどだったあのチビは、もうそれなりに一人前に成長していた。
 前兆すら予見出来なかったので、これにはちょっと驚いた。一体どの犬が孕ませたのだろう? 親父の話では、少なくとも家にいる他の2頭ではないようだが。
 あと何日、何週間かで、1年前の雌犬のように、生まれたばかりの仔犬達も活発に走り回るようになるだろう。多分、仔犬は里子に出されるであろうが、それまでは、その急激な成長振りを見守ることを楽しんでみたい。


夏、蘇る記憶
 徳島でも知らないうちに梅雨が開けた。もう夏本番、といいたいところだが、今年の夏は形だけで直ぐに秋がくるようだ。もっとも俺達は、例え季節が例年と様相を変えても、その日差しや太陽の光を確かに感じることが出来る。体かあるいは心か、その両方かが、幼い頃から巡る四季の中に身を置いていたお蔭で得ることが出来た、誰しもが共有し、誰しもの心の中で一人一人特別に持っている現風景。
 夏の強烈な日差しで思い出すのは、小学校低学年の頃。住吉の小さな借家に住んでいた数年間。前は水田、後ろは貸し農園。住宅はこれから増えていこうという途中で、原っぱがそこらじゅうにあった。トタンの小屋や雑草が高く生えた盛り土や、田植えの時期だけ流れる用水路。懐かしい記憶。目が眩むような午前の太陽の光、息をするのもままならないほどの高温と多湿。炎天下の中で走り回り、昆虫達と戯れた。幼い掌からはみ出すほど大きかったきちきちばった(精霊飛蝗)、家の前にあった広い田んぼでは小さな雨蛙やオタマジャクシ、アメンボや兜蝦が沢山いた。その田んぼの脇にある穴に、糸の先にコンコ(沢庵漬)や竹輪を結んで放り込み、面白いように釣ったザンチイ(ザリガニ)。俺をあざ笑うかのように鼻先を飛び回り捕まらないシオカラトンボ。
 幼さが持つ残酷さで沢山の生き物を捕まえて殺した。蟻、蜥蜴、そして特にカエルを。それは今思うと無知であるが故の所業とも思えるが、お蔭で言葉に出来ない何かを得ることが出来たのも確かだ。今では蛙の姿を愛おしく見る。
 昔の記憶は強烈に残っていて、ふと鼻先にそれを感じることがある。歩いている時、眠ろうとする時、唐突に蘇る記憶。二十年を経たある日、その場所に立ち寄った事が有る。だが、記憶と違い、そこは妙に狭くて小さな空間だった。低い視点から見上げていた世界はあんなに広く感じたというのに。息を切らせて走った、石ころが転がり渇いて土煙が上がった大きく波うった未舗装の道は、アスファルトになることは今だに拒んでいるものの、妙に大人しく平らになっていた。その中に、埋め込まれた朽ちたコンクリートの塊を見つけ、当時の形を保っているのを発見して、つい懐かしさを覚える。変わってしまった風景、だが、俺は幻滅はしていない。あの時の記憶は確かに俺の中で生きている。もう色あせているが、それは確かに俺がそこにいた証だ。随分と遠くまで来たような気がする。手の届くほど近くに思い出すことがあっても、二度と足を戻すことが出来ない世界。そんなものが俺の中にも眠っていて、時折目を覚まして俺の心を震わせる。そこは通過してきた世界、そして魂が回帰する世界。


性がらみの事件が色々と・・・
 最近、悪質な事件がTVを賑わせている。敢えてイラク問題や時事のニュースに関してあまり言及することを避けていたが、どうもこれだけ次々と起こると避けて通ることは出来ない。だが、何だか次々に起こり過ぎて、前の事件のインパクトが直ぐに薄くなるのが一番の問題かも知れない。長崎の12歳の少年が起こした事件、その後、間髪入れずに小6の少女達が巻き込まれた事件、通り魔事件や何だかよく判らない女子中学生を投げ落としたり、小3だか小5だかの男の子を突き飛ばした高1だとか、中学生を殺して埋めた高1と14の少女達だとか、もう、はっきりいってゴチャゴチャしてまとめようがない。
 TVでは事件の度にカウンセラーだか心理学者だかが顔を出して、もっともらしいことを言っているが、こんなになるのが判っているのなら、ちょっとは無くす努力してみろと、変なほうに怒りを持って行ってしまう。
 教育の問題もあるのだろう。情報が溢れて、それを無作為に(自分の必要なものを勝ってに)取り入れられる世の中も歪んでいると言える。
 徳島でも高校生でのセックスの経験率が(特に女子が)かなり高くなっている。昔、俺達の時代は中学生の時でも女子と親しくすれば陰口を叩かれ兼ねない状況だった。小学生では女子と一緒に遊ぶなんてことは低学年ぐらいまでしかなかった。が、今では小学校高学年にもなれば、彼氏彼女と言っているらしい。小学生男女数人が連れ立って(自転車に二人乗りなんかして)、繁華街や大型モール周辺にいるのを何度も見る。藍場浜あたりが徳島のナンパスポットらしいが、着飾った見るからに小学生、中学生が屯している。そういった状況では性経験の低年齢化は避けようが無い。
 中学生の男と付き合っていた小学校6年の女の子が、相手の家でセックスを経験するということもあるようだ。
 俺の聞いた話では、中学生の女の子達が、付き合っている男と、友達がいる前で性行為をする(乱交ではない)というのもある。その子達は連れ立って、金をくれるという男と3Pとかもするらしい。これが極めて極端で極少数な例であることを祈るばかりだ。
 問題を指摘するのは簡単だ。教育の方法を変える? 文部科学省がその気になれば教育なんて幾らでも変えられるはずだ。だが、例えそれで教育そのものが変わったとしても、その効力が発揮されるのは明日、明後日ではない。この状況はどんどん悪化の一途を辿るのは目に見えている。
 知らない人に気をつけなさい、確かに子供はそういう人達には気を付けるだろう。だが、自分が興味があり、それにリスクを感じなければ、自分で歯止めをかけるなどということが子供に出来るかどうか(大人だって出来るかどうか)。
 性モラルの低下が表面に出てくるのは平和な証拠だとも言える。社会が未成熟なうちは、これらは生活の裏側、闇で行われることで、個人が生活に困窮してか、あるいはそこから利益を得る者達、つまりプロがいるためだ。表面に多く出てくるということは、そういった利潤に群がり表立った活動を避けている奴らとは違うということなのである。逆に言えば、素人が安易な考えで行動を起こすからこそ表面化しているのである。
 俺達が出来ること、考えなければならないことは多い。出来ないというのは楽だし、あえて目を反らすのも簡単だ。だが憂いているだけなら物事は変わらない。見失っているものは多い。何を考えなければならないのか、から考えなければならないのかも知れない。


PCと携帯電話。やっちまったこと、やられちまったこと。
 4月の末に、ADSLを導入した。今までダイヤル回線だったので、そのスピードは段違い。定額で常時接続というのはやっぱりいいもんだ。でも、そのためにPCをつけっぱなしで放っておくことが多くなり、ちょっと心配している。この前もちょっと離れて、そのまま数時間、気がついたらPCがスタンバったまま。画面をつけると、どっかのホームページが、っていうことがあった。まあ、昔のように(ほんの2、3カ月前だが)、分単位幾らで、使い過ぎないようネットをするときでもあらかじめ下調べをしていたのに比べれば、遥かにマシな状況になったことは間違いないのだが、何だが、そうやってだらしなくなるのが怖い。こんな言い方をするとちょっとカッコ良すぎるが、実際は何かの間違いで多額の支払いを要求されるのでは? という心配が大きいのだ。実際、何気にアダルトサイトを梯子してたら2万近くの電話料金を請求されたことがある。ADSLに変えてから、一度アダルトサイト覗いたら、次から勝手にサイトを開くようになって、結局Internet Explorerを入れ直すハメになったから、悪いことは出来んもんだ。
 携帯電話の迷惑メールも全く減らなかった。何だ? 俺、また何かやったか? でもやっぱり原因は判らなかった。3日も放っておいたら件数は100件を超え、どうしようもなくなる。昼夜を問わず入ってくるので、近くのドコモ特約店に行ったが、解決の方法は無いとのこと。NTTdocomoには迷惑メールを送って見てもらうと送信先を停止させたり、制裁を課したりするサービスもあるらしいが、ひっきりなしに入ってくるメールをわざわざ送ってられるか。仕方なくIモード以外からの受信をオフにしたら、今のところは治まっている。アドレス変更も考えたが、気に入っているで止めた。取り敢えずはこれでよかった。
 ADSLに変更したことで、色々なホームページを回るようになり(今までは金が勿体なくて必要以外でサーフィンすることなど無かった)、また自身がHPを立ち上げ、その掲示板にカキコも貰う様になって、人と人との付き合いも色々と考えるようになった。顔はおろか本名すら定かでない相手との会話は、実は案外自分を曝け出し易い。俺は関係上、本名から住所まで、結構詳しく公表しているが、訪れてくれた人はちゃんと“Kai”として接してくれているのが嬉しい。
 だが、一方でこの便利なインターネットという道具による気苦労も多い。全てに裏と表があるように、あらゆるものにリスクはつきまとうものだ。それはいつも考えておかなければ。自分のせいで起こることもあるからな。


俺の夢の残骸
 この前、PCの片隅にある昔のデータを漁った。入力機器をWin機に変更した時、前に使っていたPC(FM−TOWNS)のデータは一括してフォルダに入れてある。そこには懐かしいタイトルや、もう内容を忘れて久しい設定が山のように溢れていた。俺がファンタジーに傾倒していた頃起こした企画。これは最初はゲームブックとして考え、実際に第1巻は完成した(第2巻以降は、余りに手間がかかることから棚上げとなった)。既に小学生の頃に原型が出来ていたSF作品もある。殆どが執筆に至ることなく、大まかな粗筋や、単にテーマだけを記した設定とも呼べないものが多い。
 短編もある。週間小説という雑誌が存在していた頃、毎月〆切で短編小説を募集していたので、それに応募するための作品である。実際は2編ほど送って、1編は名前だけが雑誌に載った(ただし、講評はこれでもか、というくらいけちょんけちょんだった。もっとも、批評内容に納得は出来たし、それが元で、“俺にも出来るんじゃないか?”と勘違いして、今の俺がある。3年くらい前のことだ。ある意味、俺の人生を変えたとも言える)。募集の終了、雑誌のリニューアル(今はジェイ・ノベルとかいう月刊誌になったはずだ)によって、俺自身も短編からは遠ざかったが、まだまだ書きたいものが沢山ある。ネットで発表するには打って付けなので、その中から使えそうなのを引っ張りだそうと思っている。
 ネットで発表する小説(オンライン小説とか言えばいいのだろうが、ひとくくりにしていいものかどうか判らないので、あえてこういう言い方をする)は、元来、“読者に読まれる必要がない”ものである。つまり、発表は自由、読むのも自由。商業誌のように、どうやれば読者が読んでくれるかという難しい問題がバッサリ無くなるというわけだ。好きな事を好きなように(勿論、ルールは守ってということだが)書くことが出来る反面、本当に読んでくれているのか全く判らないという問題もある。
 だが、それこそ一発ネタを発表するにはもってこいだと言える。ものになりそうもないネタでも、書きたいと思ったら書いて発表することが出来るのだ。
 短編、長編、純文学、SF、その他。俺が見続けた夢は、大量の残骸をその道に堆く積んでいる。どれもが朽ち果てかけてはいるが、その殆どはまだ形にすらしてやっていない。折角ホームページを持って、発表出来る場を作ったのだから、せめてちゃんとした形にしてから眠らせてやりたいと思う。
 ようやく、ネット専用小説の執筆を考え始めたところだ。


ついに導入、HDD&DVDレコーダー
 金も無いのに買ってしまったパナソニックのDVDレコーダー。別に必要にかられて、というわけでは無かったが、今、録画の為にビデオテープ10本近くを使い回しているので、非常に不便だった。どのみちいつかは買うつもりだったので、手に入れてしまったのだ。
 映像は思ったより綺麗。MPEG2なので、結局、画像はひずんでいるが、録画モードを変更することで画質を調節することが出来る。残念ながら俺の持っているハイビジョンテレビはちょっと古く、プログレッシブ非対応(コンポーネントがあるから別にいいが)だが、S1/2でも充分だろう。予約録画に関しても、テープのように起動時間がかかって冒頭が切れるようなことも少ないようだ。一応オプションで携帯電話で予約が出来る機器もあるが、いまはまだそこまではいいか。
 ちょっと俺の守備範囲では、まだ早い、という印象があるが、大量にあるVTRをDVDに録画したり(実はこれが一番の目的)、テープを気にせず録画出来るのはやはり便利だ。まだまだ機能的にも?なところはあるが、これからしばらく使い込んで、どうやって馴染ませていこうかと楽しみにしている。


7月の温(ぬる)い風
 なかなか梅雨は明けない。気温の上昇ばかりが先行し、不快指数は既に限界に達しようとしている。だが、夕方、あるいは夜中の帰宅途中、雨の切れ目に感じる匂いは特別だ。濡れた緑が発散する精気が風に運ばれ、強烈な生の毒々しさを鼻孔に感じることがある。それはどこか、庭先でゴミを焼却した時の、雑多なものが混じって燻る匂いに似ている。生きているとはすなわち、そうやって様々なものを燃やして糧を得るものなのだろう。それが植物でも変わりは無い。
 七夕のこの日、徳島は気温30度を超え、夏らしい湿度の高い晴れた空を見せつけた。もうすぐそれが、連日のことになると考えると少し憂鬱になる。が、今はまだ少し早い。夜には静かな間延びした雷の音とともに、再び雨が落ちる音が響き始めた。夏は鼻先を掠めるほど近くまで来ているが、その姿はまだ梅雨の雨雲の中に揺らめくばかりだ。


それはある日、突然始まった
 NTTdocomoのIモードは便利だが、最近、出会い系サイトからのメール、つまり迷惑メールを数多く受信するようになった。以前、電話番号をそのままメールアドレスにしていたが、迷惑メールが多発したため、現在のアドレスに変更した。ここで公開するつもりはないが、PCと同じアドレスだといえば、直ぐにわかるだろう。だが、何故、突然入るようになった? PCのメールアドレスならともかく、携帯電話のアドレスなんて近しい者にしか教えてないぞ? どこから流出したのだろう。考えられるのは2点。ひとつはNTTdocomoからの流出。だがこれは違うだろう。当然セキュリティに関しては万全とはいかないまでも、チェックは行っている筈だからだ。顧客データ流出なんてニュースをやらない限り、これは大丈夫だと思う。だとしたら、あと一つ、最近、掲示板のチェックをIモードでしているで、その履歴を読まれたかだ。もちろん、業者がPCでランダムで文字の組み合わせを考えている可能性もあるが、ちょいと低いと思う。電話番号そのままのアドレスに比べて遥かに組み合わせ文字数が多いからだ。
 しかし、ある日、一度入ったのを確認してから、僅か数時間のうちにもう10件近いメールが飛び込んできた。同じところからのメールも多い。こういうのは業者でデータを使い回されるので、最悪の場合、またアドレスを変更せざるを得ないかも知れない。今のアドレスは気に入っているので、出来ればそんな状況になるのは避けたいものだ。
 全く、俺は商業活動について寛大なほうだが、突然キレて何をするか判らんぞ。とにかく、ピリピリ受信音を鳴らすのは止めれ!


徳島演劇の閉鎖性?
 この前、文化の森であった高校、大学による演劇フェスティバルに行ってきた。仕事があるので無理だと諦めていたが、2交代にシフトが変わり、丁度休みが入ったお蔭で行くことが出来た。もっとも、体調の都合で前の週の高校演劇フェスティバルは行くのを控え、2週あるうちの後半に1日だけ行った。掲示板でも書いているが、俺の親友が協力しているので、結構楽しみだった。ヤツの演劇の観賞は初めて。もっとも今回は顔は出していない(出演はしている)のは聞いていたので、どちらかと言えば俺の興味は未体験の演劇全体の雰囲気だった。
 高校演劇が4本、大学関連の演劇が2本あったが、まあ本的には予測の範囲内だったものの、中々面白く、また小説執筆の上でのヒントになりそうな考え方も幾つか得ることが出来た。内容はともかく、得るものが多く、丸1日費やした価値は充分にあった。
 しかし、気になることもあった。講評の先生が、“名前は伏せるが、プロフィールを言えば誰だか判るだろう”ととあるシナリオ作家(徳島ローカルのアマチュアらしい)を紹介したとき、会場にいたかなりの人間には、それが理解出来たようだった(もちろん、俺にはさっぱり判らなかった)。
 この時に感じた感覚は何かに似ている。オタク感覚だ。例えばガンダムで、一年戦争が、ルウム戦役が、ミノフスキー・イヨネスコ型核融合炉が、って話すマニア達を見て感じる感覚と同じだ。
 その瞬間、徳島の演劇界は俺にとって、非常に閉じられた、狭い空間の中だけのものへと転じた。演劇自体が面白かったので、こうやって突如世界が閉鎖されたのは非常に残念だった。
 演劇関係者には、コイツ何を言ってるんだ? オタクと一緒にするなんて侮辱している!と一喝されるだろう。実はもう一つ感じ取った感覚が、演劇は一つのカルチャーとして世界に認められている、自分達はそれに関わっている文化人だ! という奢りだ。俺がまるで悪いオタク世界を見た事を、きっと彼、彼女らは酷い侮辱行為と受け取るだろう。彼らにそれを許容出来るだけの客観性を感じない。
 徳島という小さな世界で展開される小さな演劇の世界。そこから妙に鼻についた閉鎖性と奢り。定員250名の座席が決して全て埋まることの無かった現状からも、もっと“すそ野を広げる努力”というものを目に見える形でやったほうがいいんじゃないか。こういったフェスティバルをやっています、というだけじゃなくて、それをどうやって多くの人に見てもらおうかっていう努力を。その中で、今は自分達で作ってその中で満足しているものを外を解放してほしい。
 これは同じ感覚の中で同じように埋没している俺の自戒を含めた願いである。



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