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日々雑感 3



ファンタジー小説とアマチュアリズム
 俺は文士を目指している。作家ではない。同じようなものだが作家の定義に「裕福な者」というのがあることを知って、それは俺が求めるものじゃない、と思った。俺はあくまで『文士』それも出来れば『三文文士』がいい。言葉の響きからストイックな感じがして。もっとも本当に尾崎一雄の『暢気眼鏡』のような“質屋通いは当たり前”なんて状況はちょっと勘弁してほしいが。
 04年1月15日付けの一日一言にも書いたとおり、アマチュアの中にはプロを誤解している人間は非常に多い。それは小説でも同様だ。
 例えば『ハリー・ポッターと賢者の石』が出版された時、周囲では「またファンタジーものが増えるんじゃないか」という危惧があった。実際、輸入物の作品ではファンタジーは増えたが、少なくとも俺が見る限り、日本の作家はそれに便乗するようなことが無かった。実はこの時、ファンタジー小説はどん底にまで落ちぶれていて、もはや小説扱いされていなかったからである。何故なら“ジュニア小説”というジャンルが一時期爆発的に売れた為、出版社側が同人誌等のアマチュアを大量に導入したりして、質を極めて低レベルまで落としてしまったことが背景にある。
 この状況は今でも続いていて、ジュニア小説は『小説とは扱って貰えない』時も多い。書店を覗いてみれば判る。他の小説は出版社や著者によって幾つも棚が分けられているが、人気の割にジュニア小説はどこもひとくくりにされている。
 その割りにネットでオンライン小説を見てみると、ファンタジー小説が圧倒的に多い。他のジャンルに比べても、ケタ違いに多いのだ。この状況こそが、『アマチュアリズム』の実態を端的に表している。
 小説は何故か、読者と作者のバランスが悪い。つまり小説を読まない人間が、小説を書こうとしているということである。しかも、そういう人間は一様に「自分は面白い作品が書ける」と思っているのだから始末が悪い。
 これはジュニア小説の悪癖である。余りにもジュニア小説が平易に書かれているため、これなら自分でも書けそう、自分ならもっと面白い話を考えられる、と勘違いして手を出すのである。
 ハリー・ポッターが幾ら平易に書かれていても、それがカード式のプロット作成を行っているとか知らない人間も多い。執筆までの準備期間に5年もかかった理由を気にも止めないのは何故だろうか。
 TVゲームのRPGのせいもあるのだろう。ファンタジー作品にちゃんとした骨格が存在するものは稀だ。西洋では何世紀にも渡って信じられ、研究されている『魔法(今でも信じる人間は多い)』が全くの裏付けも無しに作品に導入されても説得力があるとでもいうのだろうか。それは竜や他の妖精にしても同様である。もっともSFが敬遠される理由のひとつが、この裏付けに拘る(つまり科学考証やSF考証)ことにあるのだが。
 俺も「SF小説は楽でいいよなあ、何を書いてもいいんだからなあ」と言われたことがあるし、TVゲーム的RPGヒロイック・ファンタジーが溢れる状態で俺は全くファンタジー物から興味を失ってしまい、結局作っていたシナリオを全て封印した。こんな俺がファンタジーなんて書いてもろくな物にはならないだろう。要望が有れば考えてもいいが、それで勝負する気はさらさらない。まあ、ネットで趣味の枠内で発表する分にはいいかも知れないが。
 プロはその作品に対する代価を得て生活をしているのである。だから作品に責任を持たなければならないし、だからこそ資料を集めたり、構成を練ったりして努力をしていかなけれはならないのである。この点は俺も不十分この上ないので、いつも戒めている。
 ジュニア小説を数冊しか読まず、こんなに簡単な小説なら自分でも書ける。それに自分が書いたほうが面白い。絶対に売れる。そう思っている人間がいるのなら、本当に書いてみるといい。もし天性の才能があるのなら、ネットで発表した途端、人気が爆発し、出版社と契約してベストセラー、ドラマ化、あるいはアニメ化され一夜にして時の人になるだろう。自分の才能を信じることは時には必要だ。自分が天才だと思うなら、俺は何も言わないし、それが文学界に新しい風を巻き起こすのなら、非常にいいことだと思う。
 しかし、決意と熱意はあるものの、文才に関して全く信用していない俺は、乏しい筆力を補うために、外堀を埋める努力は絶対に必要だ。作家大先生にはなれなくとも、三文文士として文壇の底辺を這いずり回りたい俺としては、血反吐を吐くぐらいは覚悟の上なのである。完成品だけを目にして、勘違いする人間も多い中、少なくとも行間が少しでも読めることが俺の可能性だと、俺は信じて疑わない。自分自身を、だ。


季節行事はやらない
 12月に入った。師走である。師が走っている。社長も走る。社員も走るし、多分パートのおばちゃんも走るのだろう。頑張ってくれ。
 で、やはり12月ともなると、何かしら心の中に焦りのようなものが生まれる。今年ももう終わりだ、と実感すると、やはり去就するのはこの1年をどう生きてきたかというものだろう。願いはかなったろうか。満足がいく自分がそこにいるだろうか。
 おっと、今年のことを振り返る前に、クリスマスに正月とこれから大きな行事が待っている。
 しかし、俺はこういった季節の行事は行わない。特にやる必要がないから。バレンタイン・デーは関係ないとしても、他のお盆にしても節分にしても何をするわけでもない。正月には煮しめをつくり、雑煮(白味噌のやつだ)を食べ、一山幾らの小さな鏡餅を仏壇に備えたりもするが、言ってみればそれだけだ。ずっとそうやって来たので、今更違和感も覚えない。
 何故か、と聞かれれば、やる必要がないから、とか金かかるからやだ、とか適当なことを言っているが、実際には“俺が某宗教関係の二世だから”というところが大きい。
 昔、俺が小学校低学年だったころ、某宗教団体の学会員から、初詣や初日の出を見に行くことを厳しく怒られた。そう言った他の宗教行事は絶対にするな、というのである。俺は強烈にショックを受けて、今でも頑に守っている。最も初日の出に関しては宗教活動と関係ないだろうと、数年前から眉山や城山に登っている。
 理由は何となく理解出来たので、俺は生まれてこのかた初詣には行ったことがない。これからも絶対に行かないと誓っている。何故なら俺に初詣について激しく叱咤した男が、実はクリスマス会なんてものを企画したことがあったからだ。
 その頃の俺はもう中学校に行く間際で、宗教活動からは足を洗って一切何もしていなかった。その男は不信心な奴だ、と俺を罵りながら、せめて季節ものの行事には参加しろと言ってきた。俺はへいへいと適当にお茶を濁し、心の中で、テメェ、ふざけたこと言ってんじゃねぇ、このブタ野郎! と罵っていた。
 こういった奴がいるから、奴らは『薄い』んだと思いつつ、俺は意地でもこういった行事はやらないつもりでいる。俺がやらない限り、俺は奴らをひたすら罵倒する権利を有するのだ。これはある意味、俺の人生を捩じ曲げた者達に対する俺の戦いのひとつなのである。


ちょっと運命論を語ってみる
 と、見出しに書いてみたのはいいが、結局、運命論など最初から微塵も信じていない俺には、語ることはほとんどない。“俺は運命なんて信じない!”と一言叫んで終わり。何だ、簡単だったな。
 俺の周囲の人間でも運命論者はいないだろう。それが運命だ、と口にする奴もいることはいるが、単純にその時の辻褄合わせをする時だけだからな。
 だいたい、俺が運命論なんて信じてしまったら、もう何も出来なくなるじゃないか。亀の歩みでも、ぼちぼちと小説も書いている。でも運命というものがあるなら、努力しなくても小説家にはなれるだろうし、どんなに努力してもなれないかも知れない。いや、なれるかどうか、ではなく、努力することに意味があるかどうかのほうが問題だ。
 俺には運命論なんて、『努力するのが嫌な人間の都合のいい言い訳』にしか聞こえない。それに、それが運命だとか言っても、本当にそれが運命なのかどうか、どうやって調べるんだ? 全く違うかも知れないじゃないか。
 もっとも俺のスタンスというのは、何度も繰り返しているとおり、信じたいなら勝手に信じておけ、というものなので、運命論者は気兼ねなく自らの運命を語って欲しい。俺の知らないところで。
 もし、運命というものが本当にあるのなら、俺は意地でもぶち壊す。それも運命だというなら、ひたすらぶち壊しまくる。どこまでいっても運命、というなら、それに抗い続けるのが俺の運命だ。運命の波に乗って楽に生きて得をするのもいいだろうが、俺には出来そうに無い。そんなに器用なら、こんな生き方なんかしているものか。
 結局、何かネタになるだろうと思ってぶち上げた見出しは、俺の生き方の不器用さを自ら認めてしまう形で終了する。何だかなあ。


復刊されるのはいいが・・・。
 出版には常に在庫と品切れの問題が付きまとっている。オンデマンドでの印刷ならともかく、普通にオフセット印刷を行うと、手間的コスト的には100冊だろうが1000冊だろうがそんなに変わらない。だから初版である程度、数を揃えて出版すれば、余程売れて注文が書店に殺到しない限り、重版はなかなかされない。注文が少なければコストに合わず、必要数を上回って印刷すると、無駄に在庫が増えることになる。出版業界は、他のどの業種よりもこの手も問題に頭を悩ませているのだ。
 そんな中、ここ数年でようやく状況に変化が見られ始めた。
 復刊ドットコムでは、100冊単位で要望が集まれば復刊される可能性がある。他にもネットの活用、オンデマンド印刷の技術的な向上、流通経路の変化等が出版界の様相を(まだまだ若干ではあるが)良くしていっている。
 だが、決定的に復刊されない種類の本も多い。例えばパソコン関係の本。日進月歩のコンピュータ業界で、5年前の解説書はもはや役には立たない。こういった本をどうしても欲しいと思うのは、そのコンピュータを使っている業界の人間くらいなもので、5年あれば個人でも大抵は機種変更があって、必要がなくなる。
 一昔前は、ゲームもそうだった。特に攻略本は今でも半年も経てば、余程売れているゲームでない限り、書店から消えている。というよりもマイナーなゲームの攻略本は置かない書店も多いし、そもそも攻略本自体が出ないこともある。
 ところが最近、レトロゲームの完全再現、リバイバル、リメイクが多くなり、必然的に昔の攻略本が再登場することとなった。だが、もちろんそれも一部の話。やはりなかなかうまくはいかないか。
 プロジェクトEGG関連で、昔のパソコンゲーム攻略本が復刊された。判は小さくなっているが、内容は昔に読んだそのままで懐かしい。
 そのままというのは当然だ。版下なんか残っていないと思っていたが、案の定、復刊されたのは既存の印刷物の取り込みによるものだった。だからモアレが目立ったり、Kが4色になっていたりするが、特別内容が読めないわけではない。というより、一時期の取り込み再販ものに比べれば、格段に綺麗に仕上がっている。まあ出版業界は、万年不況業種と自嘲しながら、緩慢な技術力の向上以外に業界努力を行っていない節があるので、もっと目に見える変化というのも欲しい。
 読みたかった本が復刊されるのは嬉しいことだが、注文して1週間、2週間待とうが、あらゆる本が全て確実に手に入る(いわゆるユビキタスな)状況が来てくれれば一番だ。もっともそれは出版業界に限ったことではないが。


マンネリは停滞か?それとも様式か?
 ビデオリサーチという会社から1週間のTVの視聴状況の調査を受けたので、先週、よく使用するTV3台について調査票に書き込みをした。方法は単純明快、よく夕刊なんかについてくるような1週間分のTV番組表に、そのTVをつけていた時の番組と時間のところに線を引っ張って行くだけ。
 で、案の定、というか思った通りというか、ここのところ、完全に生活がパターン化してしまっていた。以前の会社の時も、完全にパターンにはまってしまって、それこそハメ殺し状態だったが、今の会社はその時よりも時間がきっかりと決まっている。更には12時間勤務2シフトということで、仕事がある日の俺の時間割は、見事なまでにマンネリだ。
 仕事で12時間、引き継ぎでそれ前後に1時間はかかる。通勤に片道1時間、これだけで15時間だ。睡眠は場合にもよるが5時間から、どう少なくしても2時間、ネットでいろいろなホームページのチェックを行うと、それだけで合計30分から1時間。それにメシだのフロだのと時間を割り振っていけば、もう時間は残っていない。これを2日〜3日繰り返した後、2日ほど休みがあって、また仕事日を繰り返す。月の半分は休みだが、仕事をしている最中は他に何も出来ない。
 かといって休みにすることと言えば、やっぱりネットか文字打ち、ゲーム、読書と自宅で過ごすことが多い。
これじゃあ、生活そのものが停滞してしまっても仕方がないか。
 TV番組に関しては、俺は基本的にニュースかドキュメント番組しか見ない。ドラマはコメディならまだ我慢出来るが、恋愛物とかになると、はっきり言って見るに耐えない。バラエティ等は論外、情報番組(関西ローカルの“ちちんぷいぷい”とか“せやねん”あたり)ならOK。で、結局見る番組が固定されてしまい、いつもの時間、いつものチャンネルをつけている。調査票の書き込みは、もう毎週毎週繰り返されているだけなので、はっきり言って1週間、何を何時からどのTVで見ているかなんて、空で書けるくらいになっている。
 ただ、生活のマンネリズムは別に悪いことではないだろう。というより日々、違った(違うと思えるほどの変化に飛んだ)生活などというものを、人がそうそう送れはしまい。
 以前、俺は自分の生活が単一化していくのが不安で、嫌だった。状況的には前も今も変わっていないが、実は決定的に変化したものがある。ちょっと口にするのは難しいが、その変化とは“マンネリズムを積極的に活用するようになった”ということだろうか。ホームページを作り、執筆活動をやり、と趣味に多くの時間を割くようになった俺は、マンネリズムを“様式化”している。それは以前の“停滞”とは違い、ポジティブな利用方法だ。俺は時間の使い方が相当下手なほうだが、生活パターンを自分の思い通りに設定出来れば、条件反射的に決まったことをやることが出来る。それは何かと理由付けして逃げてしまう俺に、何とか重い腰を上げさせる役目は充分に果たしているのだ。


今のお気に入りのパンは・・・
 犬を3匹も飼っている関係上、その餌には苦労している。というのも、毎回缶詰だと金がかかり過ぎるし、かといってドライタイプのドッグフードを犬はあまり食べない。俺の貧乏性は飯を余り残さないので、夕飯の余りでもやるか、というわけにもいかないのだ。
 で、親父は何をしているかというと、1パック30円の鶏の骨を3〜5パックほど買ってきて、それでスープを作っている。もちろん、自分が飲むためでもあるが、最終的には7割近い量が犬に与えられる。そしてもう一つが、CO・OPで買ってくる、パンの耳(蔕)だ。パンの耳と言っても、大抵は一斤分の端を落とした平べったいものが殆どで、6枚切とかの食パンの耳のような、細長く切られたものは殆ど無い。
 これは犬の餌の嵩上げが主だったが、実は一口自分で食べてみて、すっかり虜になってしまった。
 俺が予想していたのは、いかにもパサパサで味もない、どうしようもないパンの耳だったが、CO・OPで買ってきたものはまるで違った。何しろ柔らかくて、甘くて、もちもちしていて、ハッキリ言ってこんなに上手いパンはない。他のどんなパンよりも美味かった。CO・OPには自家製のパンが何種類も売られているが、下手なものよりも、このパンの耳が遥かに美味い。これは実際に食べて貰わないと理解出来ないのは判っている。
 CO・OPに入っているパン屋は、ホテルにパンを納品しているらしく、その流れでパンの耳もそういったものの残りが入って来る。これは市販の6枚切とか4枚切とかの食パンの耳とは全く違うシロモノだ。
 同じパンの中の部分も食べてみたが、確かに美味いパンだったが、パンの耳に感じた美味さのギャップ、つまり、インパクトに欠けるせいか、いま一つ、ずば抜けた美味さを感じなかった。
 パンの耳は、ゴマパンだったり、レーズンパンだったりもするが、総じてみんな美味い。中には、ごく普通のパサパサのやつも混じっているが、大当たりの時は一抱え150円程で食い切れない程のパンの耳が買える時がある。このパンの耳、結構隠れた名品らしく、時間を逃すと買いそびれてしまうこともあるのだ。
 今ではいつも傍らにパンの耳の袋を傍らに置いて、忙しい時の腹の足しにしている。マーガリンを塗ってレーズンを挟んで食べたりすると、まるで別物だ。カビが生え欠けると、さっさと犬にやって新しいのに取り替える。何たって、それだけ食べて一食分、二食分、という量が30円くらいで買えてしまう。150円出して一抱えも買ってしまうと、カビてしまう前に処理することのほうが大変だ。
 まさかこんなものが、というものが、実際に口にしてみると案外いけたりもする。だが、これはハッキリ言って食わず嫌いとかそんなレベルの話ではない。これはひとつの“既成概念の打破”という教訓か?


神の存在
 俺に信じる神は存在しない。運命論者でも無いし、奇跡は自分の力で起こすものと信じている。それを奇跡と呼ぶか、努力の賜物だと呼ぶかは、単なる価値観の相違だ。
 俺が神を信じなくなったのは・・・というか、俺は神なんて最初から信じていなかったが(いや、俺は“人さえも何も信じていない”と言われたことがあったな)、少なくとも真っ向から否定するようになったのは、数年前からだ。それまでは、まあ、どこかにいるかも知れないし、余りにも上手いタイミングで何かが起こったりすると、“大いなる力の介入”を疑うことだってあった。
 だが、冷静に考えてみれば、偶然は小さな必然の積み重ねで起こるものだ。もちろん、それが絶妙なタイミングで起こったり、紛れもなく不可思議な因縁のように俺にまとわりついたりもするが、“ちょっと不思議”くらいにしか思わなくなった。
 神嫌い、ではない。多分。俺には居ても居なくてもいいというだけだ。他の誰かが神の存在を真剣に信じ、真剣にそれを語るのも悪いとは思わない。興味がないだけで。ただ、付け加えるならば、俺が神に興味が無くなったのは、そういった連中が俺に神の存在について説き、まるで俺の全てが神の思し召しであるかのように語り出したからだ。
 じゃあ、俺は何だ? 今俺があるのは神の力のお蔭か?俺が努力してやったことも神が力を貸してくれたことになるのか? 俺が不幸を被るのは、神が俺を試しているからなのか?
 ふざけている。俺は俺だ。俺の力は俺だけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。確かに運命的な不思議や因縁を感じるようなことも時にはあるが、それに対して神の存在を考えるなど、俺にとってナンセンスこのうえない。
 俺は神を否定しているが、それを他人について当てはめようとは思わない。何度も繰り返すが、俺に影響力のないことなら他人が何をしようが俺には関係がない。宗教したいならすればいい。神と一体になる、とかいって修行する姿は、ある意味人間の根源の思想を見るようで、関心したりもする。俺は少なくとも、突然俺の前に現れて、一時間も神について説教しようとする人間に対してブチ切れるだけで、活動そのものには寛容なのである。もっとも、所謂カルト集団には更に容赦がないが。
 神はそれこそ人間の誕生とともに生まれ、人間の繁栄とともに成長して来たのだ。だがそれは逆に、人間が自分に合わせて神を作ったということであり、人間の都合によっていい悪いを振り分けられた神である。その人間中心的な神こそが、俺にとってどうでもいい存在なのである。
 本当に神がいるなら、もっと俺に奇跡を起こしてみせろ。本当は色々と奇跡を起こしているのかも知れないが、それなら俺に判るように起こせ。奇跡も満足に起こせない神なら、信者共に担がれて、二度と俺の前に出てくるんじゃない。
 神とは結局のところ、人間の考えた善悪等は関係なく、誰にも平等に、あらゆるものに分け隔てなく、人間の考える幸や不幸を満遍なく与える。はっきりいって、いようがいまいがどうでもいい神だ。
 神とは太陽であり、月であり、地球であり、時間であり、XYZの座標であり、光のスペクトルであり、少女が成長する途中の胸の僅かな膨らみであり、小さな花が醸し出す、微かな甘い香りなのだ。
 敢えて、俺の信じる神は? と問うてみると、ガイア仮説辺りに行き着くかも知れない。だが、今の死の渕を綱渡りする地球の姿に神の姿は見出せない。


味覚の秋・・・だが
 10月、秋の気配はいよいよ深くなってきた。9月が残暑というより季節が逆戻りした感じがあったが、さすがに今となっては夏は名残しか香って来ない。太陽は高くなり、日差しも焼けつく感は少ない。そこに吹く風は冷たさを孕み、陽光の熱さとのギャップが逆に秋を強く感じさせる。これが風の冷たさの比重が大きくなるに従って、季節は秋の先へと向かっていくのだろう。
 秋と言えば色々と形容されるが、味覚の秋、というのは俺にとっては格別どうでもいいことだ。
 俺は基本的に食べ物に関して好き嫌いは無い。昔は人並みににんじんが嫌い、ピーマンが嫌いという時期もあったが、一度食べ出すと結構いけると思いだした。今ではそれこそ“砂”と“魔女”以外は何でもござれ、的にものは食える。
 ただ、問題なのは、俺の味覚では複雑な味が理解出来ない、ということだ。俺がいくら好き嫌いがないと言っても、ある程度、美味い不味いの判断はする。だが、それは食材、あるいは調味料の単品に対しての評価であって、それが複雑に絡み合って絶妙のハーモニー、となるともう俺にはそれが美味いか不味いかの判断なんて出来やしない。
 だいたい俺の家は、食事は親父が作る。それはお袋が身体障害者で、足が不自由だったため、家事全般を親父がこなしていたからだ。だからといって親父は料理上手ではなく、作るレパートリーは極めて少ない。それを勢いありものの(買ってきた)惣菜で間に合わせるので、俺の舌なんて肥えることがない。
 親父は交通事故で入った病院を退院してから、毎日毎日朝昼晩、毎回毎回、買ってきたコロッケと豆腐の味噌汁で二カ月間過ごした。親父曰く、コロッケも豆腐の味噌汁も体にいい、のだそうだが(この“体にいい”というのは子供にものを食べさせる為の常套句だ)、流石に俺は一時期、コロッケと味噌汁の臭いを嗅ぐだけで吐き気がするほど嫌いになった(最近はまた戻ったが)。お蔭で飯を食うことそのものを控えるようになった。
 俺はもともと食事にそれほど重要性を感じない。楽しみで食事をするようなことも無いし、俺が食事をするのは単純に必要に駆られて、つまり空腹を満たすためだけである。これには俺の幼児体験(というか今までの生活そのもの)に問題があると思われる。時たま、強烈に甘いものとかお菓子が食べたくなり、買ったりもするが、決して高額なものには手を出さない。高くて美味いものより、安くて量があって味がそこそこ、というほうが俺に合っている。値段が高いといって俺には味の違いなんて余り感じない。だから値段が安くて量が多いほうが俺にとって重要ということになるのだ。
 俺の一番好きな味噌汁は、豚汁。だが、その内容はというと、ちょっと濃いめの味付けに、大根と豚肉だけ。それ以外は一切いれない。他に何か入れてしまうと、味が変わってしまって判らなくなるのだ。ちょっと苦い大根の味、よく煮てとろける程透き通ったのがいい。昔はさしみの妻のような大根のけんが一番だったが、最近は細かく切ったものでも良くなった。豚肉も薄い細切れの味のしみこんだものがいい。味噌汁は他のものも全て2品ぐらいが限界で、中身が3品以上入っていると、もう俺には何だか変に感じる。俺の舌は縄文人か弥生人かというほどのプリミティブさだ。
 こんな俺だから味覚の秋、どころか食事そのものに興味がない。美味いものを食いたいと思っても、俺の食いたいものなんてたかが知れている。多分俺は必要がない限り、外に飯なんか食いにいかないし、それが高級料理店となると、間違いなく死ぬまで行くことはないだろう。
 1日30品目なんて言われているが、それより遥かに少なくても、俺は中学の頃から体を壊したことはない。高校生になってからは熱すら出たこともない(というか熱を感じたことがない)。最近では丸1日食事をしない日もあるし、3日抜いても平気だった。それでいて俺の貧乏性は食事を残すことを許さない。目の前に沢山の食べ物があると、なんでこんなに食わなくちゃならないんだと気が滅入ってくる。
 食べ物の話をすると、まだまだ終わりそうに無いので、また別に語ることにするが、その話の内容はというと・・・惨憺たるものになることは認めざるを得ない。



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